1970年7~8月フィリッピンでの仕事。(42才)
約35日間、フィリッピン・レイテ島で、海岸で採取した砂鉄を
2万トンの鉱石運搬船に積み込むための、先端が
ウイング式のベルトコンベヤーを現地製作、据付の指導の
ための仕事でした。
マニラに在る鉱山会社の仕事です。

↑採取した砂鉄の堆積場。右側のコンクリートの上まで堆積して
下からベルトコンベヤーに乗せて運ぶ。

写真のように、海岸から約500m沖合いまで海上に突き出し、
設置しました。
機械部分は日本で製作、鉄骨部分は、設計した構造図に
基づき現地製作しました。
現地の機械メーカーは、鋼材を海岸に持ってきて、そこで製作。
フローティングクレーンで据え付けました。
実にうまく、てきぱきと製作してました。
大きな声では言えませんが、みっちり仕事したのは試運転の
3日間だけ。(商社の要請で行ったけど早すぎた)
後は朝ちょっと見回るくらいで、ほとんど暇。
暑いので、選鉱会社の方の宿泊してる民宿みたいなところで、
水の代わりにコーラとかビールを飲みながら、休んでいました。
コンベヤーの下では漁師が
網で漁をしてました。
結構魚がいるとのことで、
コンベヤーの上から釣りをしたが
餌を魚の切り身を使ったら
全く釣れなかった。
機械メーカーの監督に、「共食いになるから餌を代えないと、
釣れないよ」と言われた。
↑海水をポンプで噴射し、砂鉄の層を崩しながら、海水と一緒に
磁力選鉱機に送り、磁力で砂鉄を回収する。
深さ80cmくらいのところに30cmくらいの砂鉄の層がありました。
無くなればコンベヤーごと、総てを別のところに移してまた
採取するとのことでした。

↑椰子の林の中の母娘のやっている喫茶店で、資材倉庫係りの
Mr Apin と雑談しながら、南国フルーツのミックスミキサー
ジュース(アロアロ)を飲みながら暇つぶしをしてました。
↑宿泊したホテルの在るタクロバン(人口30万人)の街並み。
ヤシ油を生成する工場があり、夜になると当たり一面香ばしい
香りが漂っていた。部屋のぼろクーラーの音がうるさくて、
よく眠れなくて、窓を開けて寝てた。
港の近くの酒場に行ってみたが、怖い顔の屈強な男たちが
たむろしてて怖い思いをした。
ちょっと居て出たら、いつの間にか付いてきてたガードマンに
「あんなところに行くもんじゃないよ」と怒られた。
★ ホテルでの思い出
ホテルの経営者は中国華僑で、レストランもやっていた。
ホテルの新規開店に招待された。華僑の人たちが沢山来てた。
同じテーブルにいた人は、東京の阿佐ヶ谷に居たことがあると
話してた。
★ フィリッピンバナナ
食堂のテーブルの上には、房のままのまだ青いバナナが
いつも置いてあった。熟れたら自由にいくらでも食べられた。
短くて小さかったけど甘くておいしかった。
★ ボーイ長の相談。
オーナーが、レストランの開店に金をつぎ込んで、俺たちの給料を
払ってくれないから、申し訳ないけど、宿泊代をオーナーの前で
前払いして、そのまま俺たちに渡すよう言ってくれとのこと。
その通りにしてやった。
お礼に、会員制のクラブ(鉱山所長の名儀を借りる)に
招待すると言って出かけたが、結局こっちが支払った。
鉱山の所長の近くだったので、彼も呼んだ。
奥さんがすごいやきもち焼きで、さっさと連れ戻された。
自宅に招待されたこともあったが、2人ともスパニッシュ系で
美人の奥さんだった。日本の「アカイ」製のステレオを持っていると
自慢してた。
★ 偶然
所長の住まいの近くに、日本人が住んでいると 所長に聞いたので
訪ねてみた。海外協力事業団所属の農業稲作指導員。
話を聞いていたら、それがなんと同じ鹿児島の同じ旧制中学の
3年後輩だった。3年間の駐在だそうだ。そう言えばそんな
苗字があった。
★ 村祭り
Mr.Apinの住んでる村の祭りがあるというので、夕方ホテルに
迎えに来てくれたので行ってみた。
大きな集会所みたいなところに沢山の人が集まっていた。
羽田の免税店で買ったウイスキー(サントリーの通称ダルマ)を
持って行った。豚の丸焼きのおいしいのに夢中になっていたら、
いざ飲もうと思って行ったら、すでに空っぽだった。
所長も来てて、「どうもご馳走さま」だと・・・悔しい!


↑海水浴場
休みの日、Mr.Apinが車で40分くらいの海水浴場に
案内してくれました。椰子の木が茂るきれいなビーチが
広がっていました。他に誰も居ませんでした。独り占めです。
椰子の木に寄生植物がありました。薄紫の蘭みたいな花が
咲いていました。椰子の葉陰の海の風が涼しくて
心地よかったです。
沖の遥か彼方に船の残骸みたいなものが見えました。
大戦中のレイテ沖海戦の名残だと言っていました。

← 椰子の林の中に瀟洒な建物が
ありました。
当時のマルコス大統領夫人
の別荘です。
←民家の周りのには、椰子の木が
いっぱいあり、実の中の白い部分を
干してヤシ油の原料として売ってる
とのことでした。
それぞれの家が、椰子の木を持って
いました。
少年が、ロープを木に引っ掛けながらするすると登り、椰子の実を取ってく
れ、中のジュースを飲ましてくれた。ちょと渋い少し甘い味だった。
暑いときの喉を潤すにはもってこいだった。
★ 当時のフィリッピンはコカコーラの世界一の消費国で、タクロバンの
郊外に大きなコカコーラの工場がありました。
← マニラ湾の夕焼け。
帰国時、ホテルの窓からの
眺めです。色あせていますが、
とてもきれいでした。
マニラの街中を走るジプニー。
アメリカのジープを改造した
乗り合いタクシー。
沢山走ってた。
↑ マニラ市街
下は新しい官庁街。日本の商社など、ほか、国の出先機関なども
この一角にあった。近代的なきれいな街並みだった。
↑ マニラ郊外にある墓地。
左は中国人華僑の金持ちの立派な墓。
右は、一般市民の墓。コンクリートの枡にそれぞれに
納骨しあるそうな。貧富の差歴然。
★ スーツケース
所長:Mr.Camatioの奥さんは、Pan-American航空の
経営する旅行会社の添乗員として勤務しているとのこと。
帰国の時、Mr.Camatio がホテルにやって来て、
小生の持ってたサムスンの中型の白いスーツケースが
欲しいと奥さんが言ってるから譲ってもらえないかとのこと。
代わりに今持ってるケースと交換してくれという。
会社のものだから駄目だと言っても、粘られて承知した。
布製の大きな薄グリーン色の四角いスーツケースを
持って帰ることになった。
いささか気が引けた。帰国後処分した。
マニラでも、サムスンのスーツケースは売ってるけど、
とても高くて手が出ないと言っていた。
引き合わない商取引?だったけど、今でも忘れられない。
★ Koria
1975年9月のKoria出張で仕事での海外行きは終わった。
最後の海外は丸一日ソウルの観光を楽しんだ。
焼肉も大いに食べさしてもたった。
キムチは辛くてお湯で洗って食べたら笑われた。
ヨーロッパは主にドイツとオランダだったが、写真は仕事上の
ものばかりで、しかも会社のカメラ。フィルム時代だから
私用はほとんど無い。
振り返れば仕事だったけど、たくさんの海外を検分できた。
仕事上の辛さもあったけど、いい経験と、いい思い出が
出来たことを感謝してる今です。

(クリックして大き目の写真をご覧ください)
↑ 春です。たくさんの花が咲いています。
前の雑木林に一本だけ山桜があり、今きれいに咲いています。
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